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2007年09月24日

奥出研のプロデューサー(超長文です)

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気づけば土善は3回目。年々少しずつボロくなっていくのが心配だが、すっかり奥出研お馴染となった土善での宿でした。合宿所について、いろいろやりながらまず感じたことは、あー上(自分より先輩の人)が本当にいなくなったんだなあということ。そして時間を追うごとに実感してきたのが、奥出研からプロデューサーが消えていったということ。

今期の奥出研究室のシラバスを見てみると、まっさきに「奥出研究室は21世紀のモノつくりにおけるプロデュースを体系的に学んでいきます。」とある。つまり、研究室ではただモノつくって褒められればいいのではなく、モノ作りをプロデュースしないといけない。これはどういうことだろうか。

もちろん「モノを作れる人になる」というのも大変良い目標だと思う。世間ではえせ批評家みたいな素人がいっぱいいて、何かにつけて他者を批判したり揚げ足取ったりしてテレビやネットの世界でもてはやされている。そんな状況をみて、そんなんじゃだめだ、他人の文句言う前に、「自分でもっといい意見やものを作ってみせればいいんだ!」と思うのはとても健全なことだし、日本中の人がそうなったらどんなに素敵なことだろうかと思う。

しかし、そう思ったとき、自分の力だけで実現できることがどれだけあるだろうかと考えてみると、意外と少ない。それでも結構優秀な人は自分だけでサクサク作れてしまう。そして、勉強熱心な人はさまざまさ方法や技術を身につけて結構器用にいろいろつくれてしまう。これは形あるものに限った話ではなく、サービスだとか政策といったものにもおそらく共通する。いわゆる天才肌という人も中にはいるものだ。

端的に言って、そういう人はすごいし、尊敬できる。実際、そういう人がいないと社会は動かない。しかし、「ものを作れる人」にまっとうな哲学や倫理観が伴っているかは全く別の問題である。センセーショナルで人々の注目を引くものをたくさん作るれるという人はよくいるが、作った人だけが褒められて、他のだれ一人として役に立たないようなものに存在価値はあるのだろうか。僕は、「無駄なものは不要だ」とは到底思わないのでそういうものがあってももちろんいいと思う。センセーショナルなものは人々をわくわく興奮させるし、かわいいものはその存在だけでどこか暖かい気持ちになれる。役に立たないものでも結構価値がある。

ところが、倫理的にまずいこととか、哲学的にまずいことも市場原理に乗っ取っているのか結構もてはやされてしまうのが現実である。たとえば死者の過去を洗いざらしにしてもてはやすようなwebサイトはアメリカなんかだとかなりの数存在する。(→一例サバからマグロを作るなんてニュースが最近でていたが、消費者市場主義、利益の上がる大研究だとして、これ、もてはやされるべきなのだろうか?一般大衆が望むことって本当に正しいの?ちっぽけな目的で、生態系を人間が勝手に操作して本当にいいの?そもそもなんでマグロ捕れなくなったのか反省しないの?人々の役に立てばいいの?・・・。「ものを作れる人」は大変結構なことだが、このような倫理観や物事はこうなるべきだという哲学的感性も備わっていてほしい。間違ってもビジネスの成功が全てとか、儲かるものは全てマル!だけの考えは違う。要素の一部ではあるとは思うが、完全無欠だと主張する人がいても、僕は討論する気はない。

なかなかプロデューサーの話にいかないが、僕が言いたいのは、個人で作ることを否定するということではない。むしろ「作れる個人」を尊敬する立場から、他者とコラボレーションしながら、もの作りをプロデュースする意味を考えてみたい。もちろん、先生や他の奥出研のOBや年寄り格もみなそれぞれに、さまざまな場面でいろいろなことを言っていると思うので、それを全部網羅するわけではない。あくまで、僕が今、思うことを言う。

プロデュースが必要だということの裏には、暗黙の了解としてコラボレーションが必要であるということが含まれている。ホットな話題で言えば総理大臣は国家のプロデューサーであって、村役場の職員がするような事務処理からサミットへ出席するために外国に行きます・・・なんてことを1から10まですべて自力ではしない。大げさに言えば国民全体のコラボレーションを前提にプロデューサーという立場は存在する。狭い意味で言えば、総理大臣と国務大臣のコラボレーションがある。どこだかの国の首相は、生まれてこのかた温室育ちで、自分と気の合わない人とコラボレーションしたことがなかったというのだから呆れるばかり・・・なのは、皆さんご承知でしょう。根も葉もない話だが、僕はこの半年くらい凶悪な犯罪が多発しているのは、人々の「プロデューサー」に対する不安、信頼感の欠落によるところが結構あるのではないかと思う。

次元が全然違う話だと言われるかもしれないが、政治が国作りなら、僕らはもの作り。いずれにしろ人の手を借りないですべて一人の力でできるものには限りがある。つまり、必然とコラボレーションが必要となるのは誰でも分かる。前述した通り、なかには、自分一人で素晴らしいものを作る人もいるが、そのつくるものの数には限界がある。国作りの主導権を争う政治家が、1〜2点に焦点を絞って議論しよう!なんて話はよくあるが、実際には何千万もの課題が同時並行して世の中で動いている。そのために役所の職員がたくさんいるわけだし、この現実だってコラボレーションである。とても、一人ですべて負いきれるような数ではない。ものづくりのプロデューサーも一生の中でさまざまな難局に立ち向かう。自分一人で負い切れるような仕事はほとんどない。

奥出研でいうプロデューサーは、一国を背負うほどのものかはわからないが、まったく違う意味だとは思わない。つまり、研究室内の活動で何か作って成果出して、褒められることが目的なのではなく、奥出研を卒業しても自分がぶつかる様々な局面において、物事をプロデュースする、とくにものづくりをプロデュースできる人間になることが奥出研が目指しているプロデューサー像なのではないだろうか。奥出研のとあえて言ったが、これは世界の中でも必要とされている能力だと思うし、メディアデザイン研究科が目指すものとも関連すると思う。

いちばん上の写真は、僕と臼井君(他多数の協力の元)と共にmoo-pongを制作・プロデュースしている和田さん。最近ではエロサイトの管理人としての知名度が高いようだが、彼は僕がいちばん近くで見ていたもの作りのプロデューサーだった。和田さんはフィジカルコンピューティング・インタラクションデザインの技術力が皆無に近かった状態から、いかにも奥出研とは無縁そうなSIGGRAPH2005 Emerging Technologiesに本当に通してしまった・・・なんていうと大げさだが嘘ではない。和田さんはその後ながらく旅に出てしまったり、そのおかげで、僕にとってのいろいろ楽しい楽しい日々がその後待ち受けていたりしたので、けっして完ぺきなプロデューサーだった!と強調してるのではない。プロデュースする意志、プロジェクトを成し遂げるぞ!というこころ構えを肌で感じた初めての人だったということを言いたいのである。僕が入った頃の奥出研はみんなそれぞれがプロデューサー魂を持っていたし、実際ひとりひとりができるレベルの何十倍ものパワーを生み出していた。

ではやっと本題。なぜ、奥出研からプロデューサーが消えてしまったのだろうか。

1. 残された年寄り格がだらしないから
これは大変申し訳ないが否めない事実で、和田さんが現役だった時代には奥出研にはさまざまなタイプのプロデューサーがいて、合宿のプロデュースに始まり、ORFのプロデュース、もの作りのプロジェクトプロデュース、研究会の運営、工房のプロデュースなどを実にクリエイティブに行なっていた。ところがその黄金期を経て残った僕のような人を見ると見劣りする。これ事実。

2.ひとりの人間がプロデュースするプロジェクトが減少した
1番目は半分本当・半分嘘みたいな感じだが、これはたぶん本当。この原因は学部生のうちから1つのプロダクトに固執する傾向が強くなってきたため、新しいチームを組んで取り組むという経験そのものが減ってしまった。1つのプロジェクトに本気で取り組むのは悪いことではないが、やみくもに、がむしゃらに、学会通すぞ!、修士号取るぞ!といった意気込みだけではもの作りのプロデューサーにはなれない。実際僕がいままでしてきたプロジェクトの数もかなり少ない。訳ありでひとりで作ったカヤゴモリ、moo-pongに関わってた1年間の次にMASTABA、その後はMASTERSという反則プロジェクトくらいで、自分がプロデューサーとなって取り組んだといえるのはMASTABAくらいである。あとは思い出したくもないORFのプロデュースくらいだろうか。もう丸3年半奥出研にいるが結構少ない。

3.アカデミズムとコラボレーションのプロデューサーの矛盾
大学教員の権力争いとか出世争いなんて言葉を耳にしたことのある人も多いだろう。現在のアカデミズムでは普通、コラボレーションだとか、もの作りをプロデュースすることでは評価を受けない。つまり、「自分の研究」は「僕一人のもの!」、「僕ひとりで作った方が、僕が褒められるから、その方がいいの!僕、教授になりたい!」・・・失礼承知でこんなこと言ってますが、だいたい間違ってないでしょう。奥出研もいまでこそ毎年UbiCompやSIGGRAPHなどの学会にコンスタントに出たりしているが、一昔前はアカデミズムと結構遠いところで活動していた。となると、チーム一丸となってものを作る意味・・・ってなんだ?となった時、とにかく、チーム全員が走りきる、自分たちのやりたかったことを成し遂げる!それができないと悔しい!みたいなところに行き着く感があった。すると、そこにはプロデューサーが生まれる。プロジェクトを成し遂げるのがプロデューサーであって、あるタスクをこなすために分担作業をするチームにはプロデューサーは要らない。プロデューサーは私利私欲を貯めるのとはちょっと違う。んーん、プロデューサーって何だ?アカデミズムでも貢献できるプロデューサーって何だ?これは先生がたぶん語ってくれる。たぶん。

4. 研究室の中だけではプロデューサーの価値がわからない
「別にプロデュースなんてわけ分んないことやんなくても、ほら、技術できるひと、形作れるひとと、ビデオとれる人・・・が集まって分担作業すれば、なんかできるじゃないすか!」「ほら、先生も結構褒めてるし、こんな俺らでも結構いいものつくれんじゃないすか!」「あとなんか、論文の書き方とか勉強すれば完ぺきじゃないですか!」みたいなのは、まあ言わんとしていることはわかる。実際にできるし、結構いろいろなところで褒められるのも事実。では、あえて自分を踏み台にして語ると、僕とか、特に際立った技術力もないし、3DCADとか全然使えないし、ビデオとか素人ですし、そういう意味では奥出研でたいした経験は積めていない、スキルも身についていないとも言える。でも、自信を持っていえるのは奥出研の中でプロデュースしたり、プロデュースされたりしながらいままで関わってきたプロジェクトは、どれも自分の力以上なものに仕上がってるということ。プロジェクトに関わる全員の力を足し合わせても足りない、掛け合わせているんじゃないだろうか?というくらいなモノばかりである。つまり、そこにあるのはプロデュースの力。僕はプロデュースとか正直苦手だし、他の人にプロデュースしてもらってどうにかこうにか作っているケースが多いのだが、それでも下手なりにがんばろうという意志は持てるようになってる。安部さんには及びませんが、実際、僕も苦手な人とうまくやるのは苦手だし、コラボレーションとか常に大変だなあと思う。

5. プロデュースする意味が暗黙の了解的だった
ここまで話しておいて、いっこうに、プロデュースってなに?何のためにするの?って問題に本質的に踏み込めない。はっきり言ってしまえば僕だってよくわからない。たとえば、企業なら「利益を上げる」という目標が普通に有り、そのためにはコラボレーションとプロデュースの考え方は間違いなく必要になる。また、アカデミズムでは一人でのし上がった方が私腹を肥やせるため、一流の学者になりたい!なんて人はなかなかコラボレーションとかをしたがらないし、プロデュースなんてしないで一人でこもって研究する。(もちろん、そうじゃない人もいっぱいいますよ。あくまで極論)でも、先にも述べた通り、物事を行なう上での哲学とか倫理とか考えた場合、企業だって儲けるだけが目標であってはいけないし、学者だって自分の地位と名声を上げるためだけじゃ随分ちっぽけで魅力のない職業に思えてしまう。自分一人でやるよりも、何千倍も素敵なことができて、作れて、実現できるから、コラボレーションして、コラボレーションの中でプロジェクトをプロデュースしたほうがいいじゃないか。その程度のことしか僕には言えない。僕はこの文章の中で、あえて「社会性のあるモノ作り」とか、「人々の経験を豊かにする」のような今まで奥出研で言ってきたことばを使わなかった。なぜなら、そんな言葉や概念で理解できるなら、別段ながながと言うようなことでもないからである。プロデュースって何?何のためにするの?という問題は、これから、いろいろな人に真剣に考えてほしいと思うし、自分も考えたいと思う。

参考文献とか、たぶん、いろいろあると思う。僕はそういうの面倒なので、この人あたりに聞くとたぶん答えてくれます。よろしく。

2007年09月23日

MASTABAがカナダの雑誌「PUBLIC」に掲載

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MASTABAが掲載されたページ

去年発行されていたらしいのですが、MASTABAがカナダのヨーク大学で制作されている雑誌「PUBLIC」に掲載されました。もしかしら大学の機関誌であまり公に売られてないのかもしれません。実はだいぶ前に向こうからこちらに連絡しようとしたところメールが届かなかったらしく、今の今まで発行されたことに気づかないでいました。この前webを徘徊中にGoogle先生が偶然教えてくれたので、こちらから連絡を取ってみたら雑誌を送ってきてくれました。

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雑誌の表紙

この雑誌の編集者、Caitlin FisherさんはSIGGRAPH2006のsketchesでの発表を聞いてこの雑誌に掲載してくれました。数少ない縁ですが、こうして取り上げてもらえるのはとてもうれしいことです。

ちなみに、付属のDVDをプレーヤーに挿入した瞬間、MASTABAが現れて爆笑しました。DVDのタイトルメニューの背景が全部MASTABAになっていたのです。(→写真商会のFlickr!より>)DVDだけじゃなくて表紙もMASTABAにしてくれればよかったりと思ったり・・・。(ちなみに表紙の写真はMIT MEDIA LAB.の作品らしい)

なお、研究室のガラステーブルに置いておいたので、奥出研の人は自由に見てあげてください。MASTABA以外にも記憶とかメッセージとかに関する作品がいくつか収められていて興味深いです。もし、この雑誌(=「PUBLIC 34」)を手に入れたい、見てみたいという方がいれば1〜2部なら余りがあるのでご連絡下さい。

2007年09月10日

ちょうちょ

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家の前のプランターで遊んでた。どうやらこの花がとてもうまかったらしい。

圧殺されそうな暑さは過ぎ、たかと思いきや、今日はまたとても暑くて、それでも着実に秋になろうとしていますね。